わたしたちは毎日、食事をします。日々、生きるために、いろいろなものを食べています。お米、野菜、魚、そして肉。なんでも満遍なく食べる人もいれば、ベジタリアンもいる。ライフスタイルはさまざまですが、何も食べなければ生きていけません。
 幼い頃、「一粒のお米はお百姓さんの汗百粒でできているんだから、残してはいけないよ」と言われたものです。野菜は、東京都内でも農家の直売店で泥つきのものが買えます。魚は、大きなものでなければ丸ごと一尾、どこのスーパーにも並んでいます。しかし、肉は違います。肉は、食肉として部位ごとにパックされて売られています。現代の日本で、一般の家庭が牛一頭、あるいは豚一頭を買うことは極めて稀でしょう。もちろん、わたしたちは、いま食べている肉がもともと牛(あるいは豚、羊、鶏……)であったことを知っています。けれど、牛がどのような工程を経て肉になるか、そこに考えを巡らせる機会は、とても少ないように思います。
 今回ご紹介するのは、『ナージャの村』『アレクセイと泉』などで知られる写真家・本橋成一さんが手がけた『うちは精肉店』。大阪府貝塚市で代々精肉店を営む北出さん一家の仕事を追った写真絵本です。北出精肉店は、子牛を買い付けて育てるところから、屠畜、精肉、販売までのすべてを手がけています。本書では、その中でも特に「屠畜」、それも、閉鎖されることになっている屠畜場での北出さん一家にとって最後の仕事、育てた牛をみずから解体するところにスポットライトが当てられています。一頭の牛が、屠畜され、枝肉になり、部位ごとに切り分けられ、人の手によって食肉になっていくまでの過程。人によっては、それを残酷だと感じるかもしれません。それでなくとも、たいていの人に はショッキングな光景であることは間違いないでしょう。けれど、それ以上に、写真に切り取られた北出さん一家の真剣な仕事ぶりが、ページを繰るごとに新鮮な驚きと静かな感動をもって胸に迫ってきます。
 人は、古来より他の生き物を食べて生きてきました。木の実を採り、狩猟をしていた時代から、さらに効率よく生き延びるために、食べるのに適した植物は農耕として、動物は畜産としてシステム化してきました。いまでは、どちらも機械を使い、人の手の入る領域は少なくなりつつあります。そんな中、北出さんたちは、屠畜と精肉のほとんどの工程を昔ながらの手作業で行っています。そこに込められた思いは、どのようなものなのでしょうか。
「いのちをいただく」。代々、家業として屠畜をしてきた北出家の七代目という新司さんは言います。その言葉通り、牛の体には、捨てるところがありません。屠畜された牛は、わたしたちの食べる肉だけでなく、皮は革製品として、脂肪は石けんなどを作るための油脂として、骨や腱はゼラチンや膠として、余すことなく人々の生活に利用されます。「いのちをいただく」、優しい言葉ですが、さまざまな思いが込められた、とても重い言葉として胸に響いてきます。この本を読むと、日頃、食事の前にお決まりのように言ってしまう「いただきます」という言葉も、少し重みが変わってくる気がします。

 この本は、とてもわかりやすい文とモノクロの写真による絵本なので、子どもから大人まで、幅広く読むことができます。普段、なにげなく食べている肉を、誰がどのようにして作ったのか、考えるきっかけを与えてくれる『うちは精肉店』(刊・農山漁村文化協会) 写真と文 本橋成一。ぜひ、ご家族でご覧ください。